創建西暦673年の古刹、石垣山観音寺

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観音寺の歴史

石垣山観音寺本堂

石垣山観音寺本堂

石垣山観音寺は、673年(白鳳二年)に天武天皇の勅願寺(時の天皇上候の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと)として創建されました。

寺伝に依れば、708年(和銅元年)には行基菩薩が西下し、翌年709年、七堂伽藍(しちどうがらん)(寺の主要な7つの建物。塔・金 堂・講堂・鐘楼・僧房・食堂)を造営、元明天皇より「観音寺」の勅号を賜りました。

本尊は十一面観世音菩薩を内蔵した聖観世音菩薩。713年(和銅6年)の境内地は24000坪あったと伝えられています。

 

毘沙門天

毘沙門天

847年(承和14年)、慈覚大師円仁が入唐求法(ぐほう:仏法を求めること)の帰途、この寺に立ち寄り、毘沙門院多聞堂や諸堂の創建と共に、「円成院」の院号を名づけ胎蔵界(たいぞうかい)の十三大院(じゅうさんだいいん)になぞらえて13ヶ寺を選ばれました。また、これまでの「法相宗」から「天台宗」 に改宗しました。

近年境内より9ヶ所の経塚(きょうづか)が発掘され、なかでも1112年(天永3年)の華麗な銅製経筒(きょうづつ)には埋蔵紙本写経として「法華経全巻」が揃った日本最古ともいわれる経文が内蔵されていました。

なお写経では、高麗版の「橡染紙銀字大般若経」、伝菅公筆「紺紙金泥写経文」など、未指定調査中の文化財も多く、平安後期の「木造毘沙門天像(県文化財指定)」や中国元代の絹本着色「羅漢渡海図」のほか、伝説のミイラになった妖怪「牛鬼(うしおに)の手」なども秘蔵されています。

観音寺は開山以来、観音信仰がたゆみなく脈々と続いており、九州西国霊場第19番・筑後国第3番の札所として現在でも多くの巡礼の方々とご縁を結んでいます。

毎年1月の第三日曜日に開催される「初観音大祭」では、採灯大護摩供(さいとうおおごまく)(火渡り)を厳修しており、県内外から参詣者が訪れ、今年1年間の無病息災や身体健全など、それぞれの願い事が書かれた護摩木が毎年3000本以上集まり、豪壮な火と共に一本ずつ行者によって投げ入れられ祈願されます。

 

また、5月・9月の第3日曜日は「御開帳法要(護摩供)」、毎月18日は「観音縁日」として護摩供を修しています。

ハルサザンカ

ハルサザンカ

観音寺の自然に目を向けてみると、境内中央に推定樹齢350年の「ハルサザンカ」(久留米市指定天然記念物、幹回り158センチの原木、高さ8メートル)が2月から3月にかけて可憐な紅色の花を咲かせ、鳥や人の心を和ませています。

なお2月の第3日曜日には「さざんか祭」を開催し「ハルサザンカ」の開花と共に自然の恵みに感謝しています。

牛鬼伝説と耳納山

牛鬼伝説

牛鬼伝説

1062年(康平5年)晩秋のことです。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。

「誰がつくのだろう」ほの白く沈んだ闇がむなしく、ほかには何も見えませんでした。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。

そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。観音寺の住職は、ある晩宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。

夜がふけ、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼というものすごい怪物だったのです。

 

住職は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。この怪物「牛鬼(うしおに)」も住職に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。思わず、住職はお経を唱え始めました。

牛鬼の手

牛鬼の手

するとどうでしょう。牛鬼は急に苦しみだし、住職の読経と宝剣により神通力も失い、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまったのです。

あくる朝、知らせを聞いた村人たちは牛鬼の首を京へ送り、手は観音寺に保存しました。また、この時に牛鬼の耳を付近の山に納めました。それからこの山を誰言うことなく「耳納山(みのうやま)」と呼ぶようになったそうです。

 

金光上人碑

金光上人碑

さてこの「牛鬼」退治を行なった住職が、観音寺中興の祖である「金光房然廓上人(こんこうぼうねんかくしょうにん)」という人物です。

金光上人は久留米の高良山で出家し、比叡山で教えと修行につとめた後に観音寺の住職となります。牛鬼退治の他にも、荒廃していた観音寺を整理し、護摩堂の建立など多くの功績を残されました。

また、金光上人は鎌倉を訪れた際に法然上人(源空)の弟子であった安楽房に会い、京都にて法然上人の浄土宗に入門されます。

師、法然より「法然亡き後は金光房(金光上人)・聖光(久留米・善導寺を開山)・勢観(知恩院第二世)に尋ねよ」とまでいわれていたようです。

その後陸奥(東北)地方へと赴き、布教・念仏の道を歩まれました。そのため、陸奥念仏の始祖として金光上人は現在も仰がれています。

 

日本最古の巡礼の旅―山の道から海の道へ―

巡礼アジアと日本の宗教や文化の交流の窓口となった「九州」は、古くは京から道が尽くるので「筑紫」とよばれました。道の奥にある東北を「陸奥」というのと同じです。

律令時代には、「西海道諸国」(西国)といわれ、筑前・筑後・豊前・豊後、肥前・肥後・日向、大隅、薩摩の九ヵ所からなるので「九州」と呼ばれました。(『海松論』『太平記』)

『九州西国霊場』は、福岡、大分、熊本、佐賀、長崎の北九州五県にまたがり、延長千百キロに及ぶ旅路であります。

「九州西国」は天明七年(一七八七)には「筑紫三十三番札所」とも記されています。

霊場巡礼の起源は、和銅六年(713)、宇佐(大分県)の仁聞菩薩と法蓮上人が始められたと伝えられています。(十八ヶ所巡礼)

先達となられた仁聞は新羅神・宇佐八幡の化身といわれ、法蓮は『続日本紀』(797)にも見える名僧で、英彦山の開創と宇佐・国東の仏教文化の興隆につとめ、宇佐神宮寺の初代別当(住職)として活躍しました。

その後、天平三年(731)に、同行十六人で十五ヵ所を追加巡礼し、「筑紫三十三番札所」が確定しました。

(『九州西国霊場巡礼の旅』所収「日本最古の巡礼の旅」菊川春暁著より引用)

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